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再出発のためにこれまでのまとめ

 さて、今日こそはこのブログを書いた目的である、僕の厨二病的な思想について書きます。
本当は細かく丁寧に書いていくつもりでしたが、忙しさにかまけて全然書いてこなかったので、
少しでも書ける時間のある今のうちに書きます。支離滅裂なうえ、文体の乱れが酷いですので
お読みになられるならご注意ください。
願わくば、この記事が少しでも世の中の役にたちますように。

はじめに、今ではこの考えに完全に没頭しているわけではないことをことわっておきます。
でも、まだこれに代わる生き方を見つけ出していないことは確かです。
もっと堅実に生きていければ、家族や世間的にはいいのでしょうが・・・。

 これまで自分がなりたかったのは「マッチ売りの少女」でした。なぜなりたかったのかと言うと、
彼女は、物質的には全く豊かではないのに、幸せだからです。
そして、彼女の幸せは誰にも奪うことは出来ない。多くの人間が不安を持ち続け、様々な心配を抱えながら死んでいくのに対して、彼女は何の苦しみも不安も無く死んでいった。
僕には、それが僕たち豊かな日本人がたどるべき人生に思えました。
 そりゃあ、夢や目的があり、最期まで人生を充実して過ごしていけるなら、それにこしたことはないのかもしれません。しかし、全ての人間がそうなれるわけじゃないでしょう。
どんな幸せもやがては終わる。そして、一つの夢を叶えて幸せになっても、やがて次の夢が生まれ
やがては挫折を経験することになる。
 つまり、「現実」での願望の成就は(必ずとは言いませんが)不幸を招き、やがては不幸になったまま、人生を挽回できないまま死ぬことにすらなりうる。だから夢に幸福を求めた方がマシだとかんがえたのです。
 物質的、そして、現世的な幸せには、資源的な制約の問題もあります。プレミア物や限定商品のコレクションなどは言うに及ばず、精神的な幸せの代表格とされる恋愛ですら、多くの人に求められる存在は常に希少であり、少数の勝者の幸せの代償に多数の敗者を産み出します。
 
 でも、そもそも恋愛(に限らず「欲する」対象)の相手がそんなに「高価値」である必要があるのでしょうか?高級品が全く手に入れられない貧乏な人でも、普段食べているものや使っているものをほんの少し豪華にするだけで快感や満足感を得ることが出来るでしょう。
逆に、常に高級な物に囲まれている金持ちは、満足感を得るために、尋常ではないほど高いものを買う必要があるでしょう。
・・・それなら、金持ちにとっての豊富な資産に支えられた「平均的な生活」と貧乏人が必死に働いてなんとか得ている「平均的な生活」は、等価とは言わないまでも満足感に関する限り、大して代わらないのではないでしょうか。
 
 現に、現代日本で生きている僕たちは、(基本的に)衣食住全てにおいて「貧しい国の人々」より遥かに豊かなのに、どこか満たされなかったり、自分から満たされた生活を捨てて、死んでしまったりする。貧しい人々が主に抱える苦しみからは無縁のはずなのに、それでも苦しみがある。豊かになって、満たされた後に産まれてきた苦しみが。
 貧しい国の子供たちの窮状を伝える番組などを見ると(それは伝える人間によって選択された結果ではあるけれど)彼ら彼女らは、みんな僕らより遥かに貧しく、僕らが感じたことなどないような苦しみを抱えているのに、家族のために働き、それを当然のこととして受け入れていて、そして、幸せだ。
 彼ら彼女らより遥かに満たされている僕らは、「やりたい仕事とは違う」だけで仕事を辞めたりするのに。・・・それも、単なるワガママではなくて、辞めた人にとっては十分に苦しんだ結果なのだろうけど、
 
 でも、だからこそ思う。幸せって何だ?陳腐で厨二的でお題目的な疑問でも、それでも考えざるを得ない。幸せとは何なのか。僕らは幸せになれるのか?幸せなままでいられるのか?
 そして、わずかな水や食物で、ぼくらにとっては、わずかな満足しか得られない物質で、ぼくらより遥かに満たされた人生をおくることが出来る人々が、地球上には大勢いて、彼ら彼女らを満たすことが出来る富を・・・・・・・彼らより遥かに少ない僕らが独占している。しかも、それで大して満足しているわけでもない。
 だとしたら、僕らにそんなに富は必要なのか?棚からあふれそうな商品が、食べきれないほどの食べ物が、すぐに見捨てられ飽きられる嗜好品が、それらを作るために使われるエネルギーが、本当に必要なのか?疑問に思わざるを得ない。
だが、今更これまで豊かな国々が努力して得てきた富を貧しい人々に分配するなど、たとえそれが大して必要の無い余分な分であっても不可能だろう。持っていることではあまり満足を得られなくとも、失うことでは大きな不満を得る。それが人間というものだろう。
 そして、考えてしまう。人間が幸せになるために、より多くの人が幸せになるために、そして自分たちの子孫を幸せにするために生きてきたのならば、現代の日本はその終着点にかぎりなく近いのではないか?生きるのに十分で、なお余裕のある富を得ることが幸せならば、そんなものは僕らが産まれた時点でもう終わっている。
目標を持ち、それを達成することが幸せならば、そしてその目標が物質的なものしかないのであれば、目標を産まれたときから達成している僕らに、幸せになることは出来ない。

なにより、多くの人が僕らより遥かに低い(たとえば、生きていることが出来る、家族に飢える事の無い生活を遅らせることが出来るなど)レベルで満足することさえ、僕らが生きているだけで気付かないうちに奪ってしまう。100円、99円ショップの異様に安い商品や叩き売られている安売り食品の裏に、一体どれだけの搾取があるのだろうか。
 そして、人間はどんどん増えていく、富や資源が絶対的に足りない人間もどんどん増える。日本では少子化なんていってるけど、貧乏な国々では、労働力として多くの人間が必要とされるのだ。
そして貧しい国々は豊かになるために努力するけれど、豊かになるための富は、既に豊かな国々が独占していて、生きるために必要の無い、でも彼ら彼女らにとっては必要な嗜好品を作るために、快楽を得るためにその富を浪費している。
そして、たとえ貧しい人々が豊かになったとしても、待っているのはそれまでと同じ、あるいはより多くの不満や不幸を持つ生活なのだ。

だとしたら、豊かな人間はなるべく死んだ方が良いのではないか?早く死のうが、遅く死のうが、死ぬときに幸せであれば、本人にとっては大して違いは無いだろう。逆にどんなに気をつけていても人は死ぬ。平和で普通の生活を送っていても、何の前兆も無く、あっけなく死ぬ。むしろ、長く生きれば生きるだけ、新たな目標をひたすら追いかけ続け、挫折しつづけ、予想もしえなかった不幸にあい続けなければならない。
 ならば、死んだ方がいいのではないか?「マッチ売りの少女」のように、物質的な、
現実的な富を浪費することなく、幸せに死んでその富を、貧しい人々が最低限の幸せを得るために、
死んだ方がいいのではないだろうか。

以上です。長い上に支離滅裂で、明らかな矛盾まである僕の稚拙な考えにここまでつきあってくださった奇特な方には、心から感謝します。本当に、ほんとうにありがとうございます。
この考えは未熟ですが、でも、何も考えていないよりは、マシだったのではないかと愚考いたします。
思えば、僕の最大の過ちはこの考えに至ったあと、この考えをつきつめ、世の中の実態と照らし合わせることを全く行ってこなかったことだと思います。
こうして、自分の考えを誰かに伝えるために書き表すことは、なにより考えを整理して、より深く考える手助けになるそうです。
 なので、ものぐさな自分を反省しつつ、ここから改めて出発していきたいと思います。
これからはあまりブログを更新できないかもしれませんが、もし出来たら、ここには書ききれなかったことやこの考えに至った経緯、この考えに疑問を持ち始めたきっかけなどについても書いていきたいです。
それでは、今日はこれで失礼します。


 



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