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近況と自分なりの画期的なアイデアいくつか

 前回は、頭を使って生活を変えようと書いたが、最近は頭よりむしろお金と口を使っている。
要するに、食事で気分転換をしているのだ。当たり前すぎて自分はこれまで馬鹿にしてきたが、外食で気分転換するのは良いものだ。集中力が無い自分でも、長時間居座れないように工夫されているファーストフードの座席で制限時間を決めればそれなりに集中してやるべきことに取り組むことが出来る。
 心も肉体の一部でしかない脳に基づくものである以上、肉体への刺激や快楽はダイレクトに精神に働きかけるようだ。当たり前のことだが、かなり頭でっかちな自分はこれまで意固地になって認めようとしなかったようだ。否定しすぎて、自分が否定してこだわっていることすら否定して、何もこだわっていないフリをしようとしてきたのだ。
 やはり、カッコのつけすぎは本当にカッコ悪いということなのだろう。
 さて、これから先は例によって自分が思いついた「世の中の役に立つであろう革新的なアイデア」を箇条書きで書き連ねることにする。どうせどこかで誰かがもう書いてたり、乗り越えていたりするアイデアだろうけれど、自分にとっては革新的なので、とりあえずはそれでいいことにする。リアルタイムで黒歴史を作っている気もするが歴史には黒歴史がつきものだと思うし、気にしない。とはいえ、ちょっとググればそれで済むことまで調べないで書いたので、とりあえずは暫定的なものとして読み流して欲しい。とりあえず書き出さないことには、完成出せられないと思うのでどうかご容赦を。それでは。

・これはどこかで読んだはずの考えだがあえて書く。キリスト教の強みはその「矛盾」にある。
 キリスト教だけでなく、他の一神教においてもそうなのかもしれないが、他の一神教には(というより実を言うとキリスト教についても)詳しくないので断言しない。(そもそも何も分かっていないのに断言しようとしてはいるのだが。全知全能で間違いを犯さない人間なんて存在しないからそれでいいのだ。失敗が禁忌なら学生と子どもは存在できないだろうし。)
 キリスト教の神は「全知全能」である。そしてこの世界の創造主である。と、いうことは当然ありとあらゆるこの世界の悪と不幸も神の意思によるものでなければ論理的におかしい。聖書のヨブ記という書物では、神が悪魔とギャンブルしてある人間を不幸にする許可を出す話がある(らしい)くらいである。
 キリスト教の信者は、全知全能な神が「善良」で「正義」に満ちていると信じながらも同時にその神が「不幸」や「悪」をもたらすと信じなければならないわけだ。
 そもそも「唯一絶対の神」なんてアイデアを信じなければ良かっただろうって?そいつを言ったらおしまいだ。
{まあキリスト教が出来てすぐのころや、キリスト教(や他の一神教)が支配的でない地域ならともかく、中世以降のヨーロッパやアメリカなんかでは、「気がついたらみんなキリスト教徒ってことになってたよ!」「家族も親戚もみんなキリスト教徒でエライ人もキリスト教徒だよ!社会の仕組みの基本もキリスト教だよ!」とかいう状況みたいなので、基本的に選べないのだろう。(というか宗教を選べる人って意外と少ないのでは?)}
 時間が無いので(思考を展開するには鍛錬が不足しているともいう)速攻で結論を述べるが、キリスト教の(というか多分一神教の)「矛盾」とはこの一柱の神が全てをつかさどるという仕組みである。それゆえに信者はああだこうだ思い悩む。そして人生における「悪」「不幸」を受け入れようとして受け入れ切れない。だって受け入れきれない、受け入れては正常な社会や思考が営めないからこそ「悪」や「不幸」なのだから。だから人智を越えた神の意思であり、最終的には「善」と「正義」と「幸せ」に至るものとして「不幸」を受け入れようとする意志と、どうしても受け入れきれない、割り切れない心が産み出す「衝動」がぶつかりあう。結果としてそれはとてつもなく大きな、一神教無しにはありえないエネルギーをキリスト教徒の中に産み出す。
 そのエネルギーこそが、キリスト教がここまで世界中にひろまった大きな理由であり、どうあっても「不幸」が起きてしまいそれを受け入れなければならない、だが受け入れられないという「矛盾」を思考の中に取り込んでそれをそのまま生き方に変え、「矛盾」がもたらす苦しみすら前へ進むエネルギーへ変えていけるからこそキリスト教を持つ国はここまで強くなったのではないだろうか?
 そもそも、全知全能ではない人間には、世界を完全に理解出来るアイデアなど考えることも、受け入れることも出来ないのだから。おそらく最善の道はこうして「矛盾」を抱えながらも前へ進み続けることだ。その結末は大戦争やいさかいで灰になることだけなのかもしれないが。
・とはいえ、文明が進歩、というか社会インフラが整い、食うに困らない豊かな社会だと上記のような宗教の力はあまり役立たないというか、もう用済みになっている気がする。トラブルや問題はみんなカウンセラーやマニュアル本で解決するし、そもそも、作られた当時は目新しく、唯一で代替の効かないシステムだった「教会」や「宗教」が現代人にとっては基本的に古臭くてダサイものになってしまったようである(まあ西欧の話だけど)。9.11の時も事件が起きるまで教会にはあまり行かない人ばかりだったらしいし。もちろんまだ宗教は社会の一部というか、欠かせないものではあるようだけど、どうやら、宗教では現在の社会というシステムについていけない・・・というか社会の先端を走る人々にはついていけないようである。一秒で大会社がみるみる没落したり、社会が一変する世界には、部族と古代帝国の時代に作られたシステムでは力になれないのだろう。
 魂の葛藤とかアイデンティティの揺らぎとか不幸の不可避性とかそういう他ではどうにもならない悩みや苦しみしか現在の「先進諸国」における宗教では解決できない。なぜなら、他の問題を解決する役目は宗教から独立してしまったからである。
・またかなり話を飛ばす。現在の大きな問題は、「資本主義と民主主義が全てを解決するよ!」がスローガンの「アメリカ教(仮)」とそれで幸せになれない個人や地域の対立のようだ。「アメリカ教(仮)」に他に代替するものが無いのが一番の問題だろうが、それに対抗するものとして、「本来あった「アメリカ教(仮)」より優れたシステム(自分たちが元々アメリカ的なものより優れていた証明)」として宗教が持ち出されていることらしい。

・色々な主義や正義の対立が良く問題になるが、そもそも主義や正義は人間がその小さな脳で考え、非効率な言葉で伝えったものだから、世界の全てを説明することは不可能だと思う。だから人間は不幸かというとそうでもなく、一つの主義や正義では補えないところを他の主義や正義が補うからこそ、世の中上手くいくのだと思う。
 だからといって全ての主義を平等にする相対主義が正しいというわけでもなく、「全ての破壊」「全ての否定」逆に「全ての肯定」や「無為無思考」すらこの世界には必要な役割なのではないだろうか。極地は極地ゆえに必要であり、不完全ながら何かのシステムで社会を運営しなければならない以上、あらゆる新しいシステムが誕生できる下地として「他の主義の否定」は不可欠なのだ。

・それに、人間は主義だけでは幸せにはなれないと思う。ドストエフスキーは、人間の持つ「矛盾」的な性質によって『地下室の手記』で理性によって作られた完璧な理想郷「水晶宮」を否定したが、僕は「矛盾」を持つ人間ならばこそ、「矛盾」である、不完全な人間の理性では統合的な姿を捉えることが出来ない「人間が幸せになれる世界」を作ることが出来ると思う。というか、気づけば「この世界」こそそれだ。
 一人の人間の中にも多くの面があり、リスト化出来ない部分がある。そして常にそれは変化していく。そんな人間にとっての「理想郷」「天国」は既に来ているのではないだろうか?(とは言っても、気づいたら天国にならない場合も多いだろうけど。だからそこ天国である。)

とりあえず、今日はここまで。

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